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神社の様々な分類

 必ずしも神社の格を現すまとまりではないが、地域的、文化的、あるいは観光目的などによって様々な神社のグループが存在する。新旧おもだった分類は以下の通り。

元伊勢

 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が、現在地へ遷る以前に一時的に祀られたという伝承を持つ神社・場所。「倭姫命世記」や「皇太神宮儀式帳」に詳細に、「日本書紀」や「古事記」にも記されている。

 元伊勢は、その性質上、内宮の元宮としての元伊勢、外宮の元宮としての元伊勢と分けることができる。また、内宮の元宮としての元伊勢は、最初、豊鍬入姫命が巡歴したものと、それを引き継いで倭姫命が巡歴したものに分類される。代表的な元伊勢は丹後の「籠神社」。

北海道一宮

 北海道に鎮座する神社の中で、中世以来の一宮制度に準じて近代以降に様々な形で一宮として認定された神社の総称。中には旧郡国に合わせた架空の郡国も設定されている。

 北海道神宮(蝦夷国)、徳山大神宮(渡島国)、姥神大神宮(渡島国)、 岩見沢神社(石狩国)、網走神社(北見国)、十勝神社(十勝国)、厳島神社(釧路国)の七社。

 一社のみ近代社格では郷社だが、それ以外すべて県社以上。北海道以外ではありえないぐらい浅い歴史の神社が県(道)社になっているのが特徴か。

出羽三山

 山形県村山地方から庄内地方に広がる月山、羽黒山、湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集める。

 日本の秘境100選の一つ。また、「山岳信仰の出羽三山」として、人と自然が織りなす日本の風景百選の一つになっている。出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語。

 かつては「羽州三山」「奥三山」「羽黒三山(天台宗系)」「湯殿三山(真言宗系)」と呼ばれていた。三山それぞれの山頂に神社があり、これらを総称して出羽三山神社という。宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)」。

東国三社

 下総国一宮である香取神宮、常陸国一宮である鹿島神宮、そして息栖神社、この三社の総称で、東国三大社と呼ばれることもある。

 現在の千葉県香取市と、茨城県鹿嶋市、神栖市にまたがる。大和朝廷の東国開拓の拠点として機能した三社。  各社には国譲りで葦原中国平定を実現した祭神が祀られており、江戸時代には「下三宮参り」と称して、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後にこれら三社を巡拝する慣習があった。これにより、江戸期における神宮(伊勢、香取、鹿島)を全部制覇することになる(この時代に神宮号を持っていたのはこの三社だけ)。

 また、三社の鎮座位置は、息栖神社を頂点とする二等辺三角形、あるいは直角二等辺三角形を描くことが知られている。

東京十社

 昭和50(1975)年に定められた東京近郊の10社のこと。明治初期、中世の二十二社などの制を参考に、東京近郊の主だった神社を指定し、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社とした、準勅祭社の制度を基に、戦後になって成立した。

 準勅祭社の制度自体は明治3(1870)年9月1日に廃止されたが、これらの神社の中で、23区内にあるもので連携し、23区外の大國魂神社、埼玉県の鷲宮神社などにより、昭和天皇即位50年を奉祝して「東京十社巡り」が企画され成立した。今では東京の神社めぐりの定番の一つになっている。

東京五社

 都内にある、明治神宮、靖国神社、大國魂神社、日枝神社、東京大神宮の五つの神社の総称。特段の謂れがあるものではなく、21世紀になってから、各社の横のつながりを基調として連携し、「東京五社会」を結成、毎年一回総会を行うなどの取り組みを行う中で生まれた、新しい五社めぐり。

清洲三社

 愛知県清須市に鎮座する三つの神社の総称。いずれも織豊時代、尾張国の清州城下の鎮守として崇敬された名社である。現在でも、御朱印収集など、清洲三社巡りが行われている。

 清洲城の三方、北・西・南を取り囲むように鎮座するが、このうち二社は清州の内宮・外宮とも呼ばれ、一社は元伊勢の一つである中島宮の候補地の一つであり、伊勢神宮と関わりが深い。

 もう一社は、伊勢神宮とは関わりの薄い山王社だが、豊臣秀吉の生誕に関わる由緒ある神社とされている。

京都十六社

 京都市と長岡京市に点在する16の神社の巡礼札所で、「京都十六社朱印めぐり」が正式名称。年頭限定のイベントではあるが、普段でも、いずれの神社で御朱印を頂けるため、京都市内を巡拝する最適な御朱印収集コースになっている。

武州六社

 武蔵国総社の大國魂神社で祀られ、4月末から始まる大國魂神社の例祭「くらやみ祭」に参列する、武蔵国の一宮から六宮までの六社。小野神社、二宮神社、氷川神社、秩父神社、金鑚神社、杉山神社である。

 武蔵国一宮から六宮まで(諸説あり)、基本的には総社である大國魂神社が祀っている武州六社明神に準じる。

相模五社

 毎年5月5日に往古神領であった大磯町国府本郷の神揃山(神集山)で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模国の一宮から四宮、そして五宮格の平塚八幡宮の五社を指し、これに相模国総社の六所神社を加えた神奈川の五社。

秩父三社

 埼玉県秩父市や秩父郡にある秩父神社、三峯神社、宝登山神社の三社の総称。それぞれ神体山を抱えていることから、秩父三山とも呼ばれる。三峯神社と宝登山神社は日本武尊のゆかり。

金沢五社

 加賀藩の強い意向で、江戸期を通じて「神仏習合」を廃し神職のみが奉仕し続けた、今の石川県金沢市に鎮座する神社五社の総称である。特に前田家の崇敬が厚かった五社でもある。旧金沢五社、金沢旧五社とも。

 神仏混合が当たり前の時代、神職だけによる奉仕というだけでも極めて異例で、全国的にもきわめて珍しい。それを藩が主導して行ったケースは、加賀藩のみと思われる。

菅公聖蹟二十五拝

 京都から九州(太宰府)まで菅原道真を祀る天満宮の中から、由緒深い25社を選んで順拝する風習である。

 京都の道真生誕地などから奈良、大阪、兵庫、香川、広島、山口、福岡の大宰府天満宮を経て、また大阪に戻り、京の北野天満宮で終わるルートとなる。

 数百年もの伝承を経た今日、それぞれの由緒は極めて現実感を伴い、道真の生前、左遷途上の足跡や心情にも触れることができると言われる。

 もちろん、道真のご神徳、学問・学業成就には欠かせない巡拝コースである。

浪速三神明

 大阪市に鎮座する、神明神社三社(西向きの夕日神明宮、東向きの朝日神明宮、南向きの日中神明宮)の総称。大坂三神明とも呼ばれる。

 神明神社は、天照大神を御祭神とし、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)を総本社とする神社。夕日神明宮は北区曾根崎の露天神社、朝日神明宮は現在は朝日神明社となっている。日中神明宮は大正区鶴町お神明神社。

 それぞれ由緒は違うものの、またの名を大坂三神明としていることからも分かる通り、江戸時代より崇敬され続けている。

和泉五社

 和泉国の一宮から五宮までの五つの神社の総称で、大阪は堺市、泉大津市、和泉市、岸和田市、泉佐野市にまたがる。その他の日本全国にある神社巡りと比べ、霊亀2(716)年には制度として整えられており、その後も文献に散見できる、極めて古い由緒を持つ名称。

 制度そのものが「延喜式神名帳」に先行するという珍しいケースであり、土地柄からか初代神武天皇の東遷、神功皇后の三韓征伐とゆかりの深い神社が多い。すべて式内社であることはもちろん、制度としてもさることながら、その中に組み込まれている各社の歴史は古い。

神戸三社

 神戸市に鎮座する有力な三つの神社、生田神社、長田神社、湊川神社を指す。

 生田神社と長田神社は似たような由緒を共有し、昔から神戸を代表する古社。一方の湊川神社は近代になってからの創建であるものの、今や神戸を代表する神社になっている。

 新旧織り交ぜた神戸の顔とも言うべきこの三社は、ほぼ一直線上に、東から生田神社、中央が湊川神社、西に長田神社が並んで鎮座している。

生田裔神八社

 神戸市の生田神社を囲むように点在する八つの神社で、一宮から八宮までの名称。生田神社の御祭神は稚日女尊。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるとも言われる。

播磨三大社

 播磨国(現在の兵庫県)に所在する、「延喜式神名帳」に記載される式内社、中でも最も格が高いと言われる名神大社の伊和神社(宍粟郡)、海神社(明石郡)、粒坐天照神社(揖保郡)の三社の総称。

 いずれも播磨国屈指の神社として、長らく朝廷の尊崇を受けた名社である。伊和神社は播磨国一宮。

但馬五社

 但馬国(現在の兵庫県)にある五つの神社の総称。一宮である出石神社(豊岡市)、二宮である粟鹿神社(現在は一宮/朝来市)、三宮である養父神社(養父市)と、絹巻神社(豊岡市)、小田井縣神社(豊岡市)の五社。

 最北端の絹巻神社から最南端の粟鹿神社まで、ほぼ縦に並び、各社の距離はおよそ12kmほど。

大和の大蛇三社

 大和国(現在の奈良県)に所在する三つの神社を、大蛇(巳)、あるいは龍に見立て、その頭、胴、尾になぞらえたもの。蛇も龍も水神であり、三社とも水との関わりが深い神社とされる。

 大神神社はもともとが蛇の社とされ、石園座多久虫玉神社(竜王宮)は海神色が強く、長尾神社には龍と蛇の伝承が多数残っている。

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▲織田信長が「桶狭間の戦い」に向かう際に集結した熱田神宮(愛知県)。右の「大楠」は樹齢1000年とのことなので、信長も見たに違いない。

紀三所社

 紀伊国(現在の和歌山県)の和歌山市に鎮座する、いずれも「延喜式神名帳」に名神大社として記載された三つの神社。神階昇叙も全く同一のタイミングであり、紀伊三所神とも呼ばれる、日前宮(日前神宮・國懸神宮)、竈山神社、伊太祁曽神社。

 国史には三社とも承和11(844)年に正五位下、嘉祥3(850)年に従四位下、貞観元(859)年に正四位下、貞観17(875)年に従三位の神階昇叙の記事がある。

 他での記載は、永承3年(1048年)の収納米帳を初めとして、「中右記」天仁2(1109)年条、「梁塵秘抄」四句神歌などに見ることができる。

出雲国三大社

 島根県の出雲大社(出雲市)、熊野大社(松江市)、佐太神社(松江市)の三社の総称。出雲大社は言うに及ばず、熊野大社も出雲国一宮であり、佐太神社は出雲国二宮で、往時は出雲大社と匹敵する勢力を示して、「大社」と称されていたことによる。

出雲国意宇六社

 出雲国意宇郡、現在の島根県松江市にある六つの神社の総称。「六社さん」とも呼ばれて崇敬され、この6社を巡拝する「六社参り」という行事が江戸時代以前より行われている。

 「出雲神社巡拝記」(天保4(1833)年)に詳述されているその6社は、熊野大社、六所神社、眞名井神社、揖夜神社、神魂神社、八重垣神社。

美作三大社

 美作国の一宮と二宮、総社の三つの神社の、古くから使用されてきた総称。現在の岡山県津山市に鎮座する古社三社を指す。

 この美作三大社の特徴は、総社である美作総社宮が、一宮や二宮、美作国すべての神々を合祀するのは当然として、二宮の高野神社が一宮の中山神社御祭神、総社の美作総社宮御祭神を合祀して共有している点。

安芸国三大神社

 安芸国(現在の広島県)にある「延喜式神名帳」に記載のある三つの式内社(名神大社)の総称。安芸国一宮である厳島神社、同二宮である速谷神社、そして多家神社。

 現在の多家神社は、明治期になって式内社再建の動きの中で創建されたもの。しかし、1000年以上前の「延喜式神名帳」に速谷神社(佐伯郡)、伊都伎島神社(佐伯郡、現・厳島神社)、多家神社(安芸郡)としっかりと明記されている、由緒正しき三社であることは間違いない。

周防五社詣

 明応6(1494)年、九州の戦陣から帰った周防国領主大内義興が国内五社に戦勝報告したことに由来する。周防五社、周防五社参詣、周防五社詣などとも呼ばれる。  その義興による参詣順が、周防国における一宮から五宮として定着した。今でも義興の遺風にならい、この五社を順に巡る参拝者は多い。

福岡三社詣

 全国(特に九州地方や中国地方)で根強く残る風習の三社詣(三社参り)の一つで、福岡県内の三社を、特に正月の初詣として詣でること。太宰府市の太宰府天満宮、福岡市の筥崎宮、福津市の宮地獄神社の三社。

 三社詣の風習の起源はよく分からないが、朝廷が伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社の三社に奉幣し、これが庶民にも三つの神社に詣でる(三社に参拝する)風習として広まったという説が伝えられている。

長崎三社・五社

 長崎市に鎮座する有力な神社三社の総称で、諏訪神社(上西山町)、伊勢宮神社(伊勢町)、松森天満宮(上西山町)のこと。この三社に、中川八幡神社(中川)、水神神社(本河内)の二社を加えたものを長崎五社という。

 長崎には中世にまでさかのぼる神社は少なく、長崎奉行が置かれるなど江戸期に発達した都市として、これら五社もいずれも江戸期に創建、または整備され興隆した。

 その伝統は今なお受け継がれ、近世の信仰形態が色濃く残る神社めぐりとも言える。

壱岐七社

 壱岐国の式内社七つの神社の総称。壱岐七社めぐり、壱岐国七社、壱岐島大七社などとも呼ばれる。

 神功皇后の三韓征伐か、桓武天皇の御世における八幡勧請が由緒となっていることが多く、住吉、八幡の比率が高い。いずれも江戸期、平戸藩主が特別に崇敬した神社。

 古代から日本にとって朝鮮半島を見据えた戦略上、壱岐は要衝中の要衝。そこに多くの神社が建てられ、そのひとつひとつが朝廷から極めて重視された。その結果、1000年以上にわたって厚く祀られてきた神社多い。

 現在でも、正月に豊作、大漁、家内安全、健康長寿を祈願して七社参りする島内外の住民は多い。一説には、七社参りをする時には、時計回りに参拝し、後ろを振り向いてはいけない、とされている。

阿蘇四社

 熊本県に鎮座する四社の神社で、肥前国一の宮である阿蘇神社を中心とした、つながりが深い四社の総称。

 阿蘇神社以外の三社は、それぞれ創建事由は違えど、基本的には阿蘇神社が大きく創建やその発展に関与してきて、一時期はいずれも阿蘇神社の摂社に位置づけられていた。

 また、四社には入っていないが、阿蘇神社の北に位置するため北宮の別称がある国造神社も、阿蘇神社はもちろん、他の三社ともそれぞれのつながりを持っており、関連が深い。

熊本県三大神社

 県内に鎮座する阿蘇神社(阿蘇市)、高橋稲荷神社(熊本市)、出水神社(熊本市)の三社の総称。

 選定基準などは不明。熊本県三神社、熊本県三社などとも呼ばれる。

九州三大稲荷

 九州わ代表する主要な稲荷神社、祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)、高橋稲荷神社(熊本市)、扇森稲荷神社(大分県竹田市)の三社の総称。九州三稲荷とも呼ばれる。

鹿児島三社

 いずれも現在の鹿児島市に鎮座する一之宮神社、鹿児島神社、川上天満宮の三社の総称。

 島津氏の氏祖=島津忠久が正月にこの三社を必ず参拝していたという伝承から別格に扱われた神社。

 それぞれ一宮から三宮が付されており、巡拝の順序が決まっている。島津氏自体のこの三社を巡拝する三社詣は18代当主=島津家久(1576〜1638年)の代で廃絶してしまっている。また、忠久は既に存在した一之宮神社と二宮である鹿児島神社を崇敬したと思われるが、三宮である川上天満宮は5代当主島津貞久(1269〜1363年)の勧請と伝わり、忠久の時代に三社が揃っていたわけではない。

琉球八社

 琉球には臨済宗と真言宗の2派の仏教が伝えられ、8公寺が存在した。これら8公寺には神社が併置されていたが、これらの各社は俗に琉球八社と称された。

 琉球八社の首座を占めたのは波上宮。これは波上宮を境内にもつ護国寺が真言宗各寺の本寺であったことによると伝えられている。

 琉球八社の祭神には安里八幡宮のみ八幡神が祀られ、それ以外は熊野権現が祀られていたが、全て真言宗寺院の境内に鎮座していた。

二所宗廟

 皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟のことで、伊勢神宮(三重県)と石清水八幡宮(京都府)の二つの神社を指す。ただし、石清水八幡宮は遠国の宇佐八幡(現宇佐神宮/大分県)に代わって指定されたとされる説もあり、石清水八幡宮と宇佐神宮を同一視する向きもあり、二所としつつも三社と考るべきとの説も根強い。

 古代は石清水八幡宮ではなく、宇佐神宮だったのではないかとする伝承も残っている。それによると石清水八幡宮に変更になったのは中世からとされる。

四所宗廟

 江戸時代の学者・貝原益軒「筑前国続風土記」に「四所の宗廟とは、東に伊勢(三重県)、西に香推(福岡県)、南に石清水(京都府)、北に氣飯(福井県)」とある四つの神社のこと。

 日本四所宗廟、本朝四所などとも呼ばれる。京を中心として、皇室とゆかりのある神社を東西南北で比定したものと考えられている。

日本三大稲荷・五大稲荷

 稲荷神を祀る寺社の中で、主要な三社の総称。日本三稲荷とも呼ばれる。五大稲荷とは、同じく主要な五社の総称。ただし、伏見稲荷大社以外は自称の感が強く、特定するには諸説あり、異論が少なくない。

日本七神明

 芝神明宮(東京都)、松原神明宮(京都府)、東山神明宮(京都府)、難波神明宮(大阪府)、加賀金沢神明宮(石川県)、信濃安曇神明宮(長野県)、出羽湯殿山神明宮(山形県)の七神明神社。

 日本を代表する神明神社という括りと思われるが、出所などは不詳。「露ノ天神社由緒略誌」「平成祭礼データ」などに記述がみられる。

三大住吉

 全国に約2300社ある住吉神社の頂点に立つ三社であり、総本社である大阪の住吉大社を筆頭に、神功皇后が三韓征伐前に祀ったのが起源である下関市の住吉神社、伊邪那岐が禊を行い住吉三神を生んだ場所という伝承がある福岡市博多区の住吉神社の三社を指す。日本三大住吉とも呼ばれる。

 住吉神社は、いずれも住吉三神を祀る神社。関係が深い神功皇后やその近親者や側近としての第十五代応神天皇、建内宿禰(武内宿禰)などがともに祀られているケースも多い。住吉三神とは、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱で、古事記にも登場する。いずれも黄泉の国から戻った伊奘諾尊が禊を行った際に生まれた神である。

 三大住吉が九州に一つ、本州最西端に一つ、大阪に一つという構成は、神功皇后の三韓征伐からの帰還に伴う遠征ルートと対応しているといわれる。

日本三大八幡

 日本で最も多い神社である八幡神を代表する三つの神社の総称である。一般に本宮たる宇佐神宮、都への勧請以来本宮の扱いを受けた石清水八幡宮、そして古い由緒を持つ筥崎宮の三社。現在では、筥崎宮に換えて、後世になって知名度が高くなった鎌倉の鶴岡八幡宮を入れる場合もある。

 八幡神(何柱かの神の総称)は日本に深く根付いた神の一つだが、その組み合わせは多岐に渡る。

 宇佐神宮は応神天皇、比売大神、神功皇后という組み合わせ、筥崎宮は応神天皇、神功皇后、玉依姫命、また応神天皇の単独型、応神天皇と神功皇后のみ、さらにそれに仲哀天皇などを加える組み合わせなど、日本全国で各種みられるのも特徴。

日本三大弁天

 弁才天を祀る三つの寺社のこと。日本三大弁才天、日本三弁天などとも呼ばれる。財物神としての、弁財天と表記されることもある。

 もともと弁財天は、仏教の守護神ではあるが、日本では本地垂迹において、宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命と同一視され、奈良期以降崇敬され続けている神。

 三大弁天とする場合、竹生島の宝厳寺・都久夫須麻神社、宮島の大願寺・厳島神社、江ノ島の江島神社の三つと言われる場合があるが、天川村・天河大弁財天社を含む場合もある。

 女神ということで、縁結び、技芸、財運などのご利益が知られるが、地図を見れば一目瞭然、すべて水と関係しており、水辺に鎮座する寺社。

 市杵嶋姫命の本宮が宗像大社であれば、もともと水・水運・水上交通ともゆかりの深い神であり、日本を代表する水神でもある。

日本三大愛宕

 全国各地にある愛宕神社のうち、有力な三社を総称したもので、京都府京都市右京区、東京都港区、福岡市西区の愛宕神社の三社。

 京都の愛宕神社は総本社・総本宮で、愛宕信仰の発祥地。愛宕信仰は、火防の神に対する信仰である。

 愛宕の神とされる伊弉冉命は、神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智命(火之夜藝速男神とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。

 勝軍地蔵を本地仏としたことから、火伏せの神としてだけでなく武神としての信仰もあった。  直江兼続が兜の前立に「愛」をまとっていた理由とも言われ、徳川家康の崇敬が、東京都港区の愛宕神社の由緒となる。

 京都の愛宕神社が京都市最高峰に鎮座するためか、他の二社もそれぞれ「山」に鎮座していることが共通の特徴。

日本三大天神

 日本の代表的な三ヶ所の天満宮の総称である。日本三天神、日本三大天満宮、日本三菅廟とも呼ばれる。一般には北野天満宮(京都府)、太宰府天満宮(福岡県)、防府天満宮(山口県)の最古三ヶ所をいう場合が多い。

 祭事の規模や異説によっては防府天満宮を外して大阪天満宮、小平潟天満宮(福島県)などを入れる見方も。

 菅原道真を御祭神とする天満宮は、全国に1万2000を超えるとされている。

日本三大東照宮

 東照宮は東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。江戸幕府によって建立された日光東照宮、久能山東照宮などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も建立し、全国で数百社が建立された。明治維新以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社。

 元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮が完成。翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬され、日光では同年4月(4月)に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。

 130社の代表格として、久能山東照宮(静岡県)、日光東照宮(栃木県)、仙波東照宮(埼玉県)の三社が上げられる。

和歌三神

 古来より和歌の神として崇敬されてきた三柱の神の総称。伝統的に、衣通姫・玉津島明神を祀る玉津島神社、和歌で宣託する住吉明神の総本社・住吉大社、柿本人麻呂(柿本大明神)の三つの神社や神を指すが、より古い時代には、人麻呂ではなく菅原道真を祀る北野社・北野天満宮を入れる場合もある。また、住吉明神に代わり、山部赤人とすることも。

 衣通姫、柿本人麻呂、山部赤人のように、特定の神社ではなく、歴史的人物を指すという見方もあるが、“三神”であるため、歌聖でかつ神でなければならず、であればやはりその神を祀っている神社に充てることも可能だと思われる。よってその神社は全国多数にのぼる。

日本三大下宮

 石段を下った先に社殿などが存在するという非常に珍しい境内の配置となっている神社の中で主要な、一之宮貫前神社(群馬県)、鵜戸神宮(宮崎県)、草部吉見神社(熊本県)の三神社を指す総称。

 日本の神社は山への信仰と密接なつながりがあり、多くが山登り、上る構造の境内になっており、少し時代が進むと平地などにも作られるが、下るというのは、非常に珍しい形。

 なぜこのような形になったのかは不明。もちろん鎮座地の地形の関係もあったのだろうが、「あえて下る形を採用する」には理由があるはず。九州に二社、関東に一社、と地域的にも、特段の特徴があるわけではなく、三社に何らかの共通項を探すことも難しい。

 しかし、その珍しさもあってか、また、いずれも由緒正しい古社であることもあり、人気を博している。

日本三熊野

 日本三熊野は日本三大熊野ともいい、熊野信仰に基ずく日本各地の有力な熊野神社の総称で、熊野三山(三社)のほか、熊野神社(山形県南陽市)、熊野神社(群馬県安中市)、熊野皇大神社(長野県北佐久郡軽井沢町)」の6社を指す。

源氏三神社

 武家で、後に全国を統治する源氏の発祥に関わる三つの神社の総称である。これらを経て、鶴岡八幡宮のある鎌倉を拠点としたのが源頼朝である。

 まず、京の六孫王神社で祀られているのが、清和天皇の第六皇子である源経基であり、清和源氏の祖。その子が源満仲であり、摂津の多田神社の御祭神で、いわゆる多田源氏、武家の系統となる。

 満仲の三男が源頼信で、源頼義の父。頼義は八幡太郎義家の父であり、いわゆる河内源氏で、この三代、頼信・頼義・義家が壺井八幡宮の摂社である壺井権現社の御祭神。壺井八幡宮は頼義が石清水八幡宮から勧請したもので、鶴岡八幡宮へ勧請したとされる。

 頼朝が鶴岡八幡宮を氏神として重要視したことは広く知られており、この鶴岡八幡宮に至る源氏と神社の前史がこの三社に集約されていることになる。

東海道三大社

 江戸時代、東海道に鎮座する三神社の総称として使われた名称で、静岡県にの鎮座する三嶋大社と愛知県に鎮座する知立神社、熱田神宮の三社を指す。東海道三社とも呼ばれる。

 日本神社の代表格である三嶋大社と熱田神宮に比してやや知名度に劣る知立神社が主導したユニットと推測する向きが多い。

九州五所別宮

 承平天慶の乱(10世紀前半の平将門の乱と藤原純友の乱)の平定を願い、宇佐神宮(大分県)、石清水八幡宮(京都府)から勧請した九州の五つの八幡神の総称。宇佐八幡宮五所別、石清水五所別宮、八幡五所別宮などとも称される。

 東国では将門が、瀬戸内海では純友が、ほとんど同時期にそれぞれ中央に反旗を翻す形になった未曽有の大事件に際し、都では討伐軍の派遣を進めながらも、一方ではなすすべもなく神頼みが広まった。遠隔の九州の地に、当時最も霊験があるとされていた八幡神を勧請したことが由来。

 別宮の五所は、大分八幡宮(福岡県飯塚市)、千栗八幡宮(佐賀県三養基郡)、藤崎八旛宮(熊本県熊本市)、鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)、新田神社(鹿児島県薩摩川内市)。

大和国四所水分社

 大和国(現在の奈良県)の水分四社などとも呼ばれる、旧大和国の概ね東西南北に鎮座する四つの水分神社の総称。宇太(東)、葛木(西)、吉野(南)、都祁(北)の各社。

 それぞれ守護する河川を持ち、各社に共通して祀られている御祭神が、天水分神。水天宮(福岡県久留米、東京都中央区など)と同じ神だ。

 社名も祭神もその名の通り、水を分ける神。「延喜式神名帳」にはそろって大社(式内大社)に列したことでもその重要性はうかがい知れる。

 古来、水を制すことこそが統治者の使命であったことを考えると、首都・大和の地を守る生命線だったかも知れない四社ということになる。

宇陀水分三社

 奈良県宇陀地方に鎮座する水分神社三社の総称で、延喜式神名帳にある「宇太水分神社(大和国宇陀郡)」に比定される式内論社。「大和国四所水分社」の一つでもある。

 大和国の西方を流れる芳野川の上中下流域に一社ずつ鎮座する。上社=惣社水分神社(芳野、中山)、中社=宇太水分神社(古市場、玉岡)、下社=宇太水分神社(井足、田山)の三社(上の宮、中の宮、下の宮ともいわれる)。

霧島六社権現

 宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある六社の総称。霧島六所権現とも呼ばれる。

 村上天皇(在位:946年〜967年)の時代に、霧島山などで修験道の修業を行った性空によって整備されたもの。霧島山そのものを信仰対象とする山岳信仰で、霧島山を道場とする修験者の拠点であった。

 六社には諸説あるが、霧島神宮(西御在所霧島六社権現)、霧島岑神社(霧島山中央六所権現)、霧島東神社(霧島東御在所両所権現)、東霧島神社(東霧島権現)、狭野神社(狭野大権現)、夷守神社(夷守六所権現)の6社。

鎮魂祭三社

 鎮魂祭とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。

 宮中とほぼ同時に古い形式のままこの儀式を伝えている神社が、石上神宮(奈良県天理市)、彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)、物部神社(島根県大田市)の三社。

 鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた。太陽暦導入後は11月22日となる。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式とされている。

 また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもあり、第二次世界大戦以後は皇后や皇太子夫妻に対しても行われている。

日本三大縁結び神社

 ご利益として縁結びを謳う神社のうち、特に有名な三社。一般的には、出雲大社(出雲市)、貴船神社(京都市)、氣多大社(羽咋市)を指す。

 出雲大社は言うまでもなく、その他二社も含め、いずれも大昔からの由緒正しき古社。

幾つかの神社のまとまりは、最近流行の「ご朱印」集めのテーマとしてうってつけだそうだ。数が限られているとコンプリートしやすいから。
参考文献▶『宗教年鑑』文化庁編/『神道とは何か』伊藤聡(中公新書)/『古事記完全講義』竹田恒泰(学研) /Wikipedia/全国の神社で入手したパンフレット等/他
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