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神社の社号と社格

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神社の名前,社号とは…

 社号には「神宮」「大神宮」「宮」「大社」「神社」「社」の6種類があり、「明神」「権現」といった社号もかっては用いられていたが、神仏習合的な言葉とされ現在では通称としてのみ用いられている。

 これらの社号は無秩序につけられているわけではなく、神社の権威や歴史、祭神の性質などに基づいていることが多い。

 例えば「神宮」。本来「神宮」と呼べるのは唯一伊勢神宮(三重県伊勢市)のみであったが、参拝者が便宜上「お伊勢様」や「伊勢神宮」と呼ぶようになり、現在も通称となっているが、正式名称は「伊勢」の付かない「神宮」である。

 しかし、だからといって鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と香取神宮(千葉県香取市)などが「神宮号」を僭称〔せんしょう〕しているわけではない。2社とも歴史は古く、延長5(927)年に編纂された「延喜式神名帳」に記載されている2,861社のうち、「神宮」を称しているのは伊勢・鹿島・香取の三社だけである。詳細は不明だが、「神宮号」は皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されていたのではないかと考えられている。

 「宮」も格式は高く、香椎宮(福岡県福岡市)・筥崎宮(福岡県福岡市)・東照宮・天満宮など、特別の歴史や格式を認められた社にのみ許された社号とされている。

 「大神宮」は、伊勢神宮が別の地に鎮座する分社的な色合いの強い特例の場合の社号で、東京大神宮(東京都千代田区)などがその例。

 「大社」は地域信仰の中核をなした大神社で、出雲大社・春日大社・松尾大社・日吉大社・熊野大杜・多賀大社・諏訪大社などがある。出雲大社は「いずもたいしゃ」は通称で、「いずもおおやしろ」が正しい名称。  明治初期に制定された近代の社格制度では、神社の歴史や格式によって付される社号がある程度決められていた。しかし戦後の昭和21(1946)年2月に制度が廃止され、言わば自由に(?)名乗ることができるようになったため、社号を変更した神社もかなりあった。

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 現代の神社は、建前上はすべて平等ということになっている。…がしかし,国家資格を持った神職やアルバイトの巫女さんが何十人も働く大きな神社と、山奥にひっそりとたたずむ祠〔ほこら〕のような無人の神社を同等に扱うことは現実的ではない。

 戦後、国家による神社の管理が解かれ、民間宗教法人となった神社庁は大規模な神社を「役職員進退に関する規程」に則って一覧表から除外した「別表神社」として包括している。

 この「別表神社か否か」以外の格差はなくなったはずだが、現実としては神社の歴史や格の高さを確認する手段として、古代・中世の社格基準や明治時代に制定された近代社格を利用している。

 「勅祭社」や「四方拝遥拝神社」など皇室と関係の深いものや、令制国一宮や二宮など単に神社の格を示すだけでなく、全国各地の地名としても広く普及していることもその理由としてあげられる。また、参拝客増を目指す神社自体も、自社のプレゼンスを強調するために用いているケースも見受けられる。

​ ならば、平安時代より成立した社格制度にはどのような種類があり何を基準としたものかを知ることも、神社への造形を深める意味において重要である。

四方拝で遥拝される神社

 四方拝〔しほうはい〕とは、元日の早朝に黄櫨染御袍〔こうろぜんのごほう〕と呼ばれる束帯を着用した天皇が、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に一人で入り、伊勢神宮の皇大神宮、豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する宮中祭祀の一つである。

 この時に天皇が拝される神々と天皇陵は、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵、先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵と、石清水八幡宮、熱田神宮、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、常陸国一宮(鹿島神宮)・下総国一宮(香取神宮)となっている。

 四方拝の儀は飛鳥時代からはじまり、平安時代に正式な儀式として恒例化した。内容は、当時発刊された「内裏儀式」、「江家次第」という書物に書かれている。誰も見たことがないとされている密儀でもある。

 現在ではあくまでも、皇室の私的な行事とはなっているが、代々の天皇によって今日まで受け継がれている。

 これは、厳密には社格とは言いがたいが、奉拝される神社とされない神社がある以上、区別の基準として紹介しておくべきものと考えた。

勅祭社

 祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる(勅祭)神社を「勅祭社」という(勅使は遣わされるが伊勢神宮は別格とされてこれに含めない)。

 現在の勅祭社は16社。このうち、宇佐神宮と香椎宮へは10年ごとに、鹿島神宮と香取神宮へは6年ごとに勅使が遣わされ、靖国神社には1年に2度、春秋の大祭に勅使が遣わされている。

二十二社

 長暦3(1039)年、後朱雀天皇により選定され、永保元(1081)年に制度として制定されたとされる「二十二社」は、紛争や動乱、天変地異など国家の重大事がおこると勅使が遣わされ、奉幣をたてた神社が二十二社(上七社, 中七社, 下八社)あったことから、特別な社格として認識されるようになった。

 すべて名神大社であり、下表の通りすべて近畿地方の神社である。

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延喜式内社

 延長5年(927年)に、古代律令制における神祇官がまとめた「延喜式神名帳」に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で、式内社、式社と呼び、一種の社格となっている。

 国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。

 式内社は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。重要度の高い一部の社を除き、官幣社のほとんどが畿内に集中しているが、国幣社は全て畿外にある。これは、遠方より上京する畿外の参拝者への配慮として、国幣社が定められたからと考えられている。

 式内社は、朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準の詳細は判然としていない。

 式内社に対し、延喜式神名帳に記載がない神社を式外社と呼ぶ。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、または神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。

近代社格制度

 明治4年5月14日(1871年7月1日)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定された社格制度では、「延喜式」と同様に、官幣社・国幣社に分けたが、それぞれの格式を更に大社・中社・小社の三段階に分けた。その下に別格官幣社があり、府社・県社・郷社村社からなる諸社を設けた。

 なお、「延喜式」と同名の社格が多いがまったくの無関係で、それぞれの意味は異なり、制定時の価値判断で定められた。

《官社》官幣社・国幣社をまとめて官社(官国幣社)という。祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社であり、官社は神祇官が祀る官幣社と、地方官(国司)が祀る国幣社に分けられている。

《別格官幣社》 後に、国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなったや兵士を祭神として祀る神社のために別格官幣社が創設され、明治5(1872)年に楠木正成を主祭神とする「湊川神社」が初の別格官幣社に列格している。別格官幣社は官幣小社とほぼ同格。

《諸社》 府県社・郷社・村社などを合わせて諸社と分類される。府県社は府や県、台湾の州、台湾、北海道、樺太の庁から奉幣を受け、郷社は府県または市から奉幣を受けた。

 また当初あった藩社は藩より奉幣を受けるとされたが、藩社が指定される前に廃藩置県で藩が消滅したため、列格した神社はない。

 府社の社格は東京府・大阪府・京都府の3府に所在の神社に与えられ、県社はそれ以外の県に所在の神社に与えられたほか、北海道・樺太などの外地では「県」がないにもかかわらず県社とされた。

 また、昭和18(1943)年に東京都が誕生したが、近代社格制度の廃止まで「都社」はないままだった。

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国史見在社

 古代日本の律令国家が編纂した6冊の正史(「日本書紀…養老4年(720)」「続日本紀…延暦16年(797)」「日本後紀…承和7年(840)」「続日本後紀…貞観11年(869)」「日本文徳天皇実録…元慶3年(879)」「日本三代実録…延喜元年(901)」)である「六国史」に社名が記載されていた神社を「国史見在社」という。

 しかし、そのほとんどが既に格式を認められている「式内社」であったため、通常は掲載されている中では格下とみられていた「式外社」の評価について用いられる基準とされる。

 後世になって、「式外社」であったにも関わらず「国史見在社」であるということから、改めて格式が再認識された神社群という意味合いが濃い。

一宮(下図:一宮マップ参照)

 奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった「令制国」内において、最も格式や規模の大きい神社を「一宮」と定めた。

 基本的に令制国1国1社を建前にしていたが、時代の変遷や各国の諸事情によってはその限りではなく、越中や阿波のように4社も存在する国もある。

 選定基準は曖昧だが、地域の守護神であり厚い崇敬対象の「式内社」から選ばれることが多かった。

 国によって差はあるが、域内の神社の中から格式順に、一宮、二宮、三宮…(九宮まで(上野國)記録がある)などが序列的に定められた。

 現在においては、一宮の起源を「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とする説が有力となっている。

令制国総社

 総社(惣社)とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことである。総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることもある。

 多くは令制国の範囲で包括されたものを指すが、荘園や郡・郷・村など、特定地域内の場合もある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。 総鎮守社

 特定の建造物や一定の土地を守護する鎮守神を祀った神社。現在では、鎮守神を氏神、産土神と同一視されることも多い。令制国全体の鎮守神を祀る社を総鎮守社という。

准勅祭社

 明治初期、氷川神社が早々に勅祭社の地位を獲得し、近代における勅祭社の制度が確立する中で、中世の二十二社などを参考に、東京近郊の主だった神社を指定し、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社としたその総称。

 この制度自体は明治3(1870)年9月1日に廃止されたが、現在においても社格として存続しているのが現実。また、これを基にして成立した東京十社が、東京の神社めぐりの一つの定番になっている。

建武中興十五社

 建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする十五の神社。近代社格では官幣大社(後醍醐天皇を祀る吉野神宮)1社、官幣中社(後醍醐天皇の子、皇族である親王を祀る)4社、別格官幣社(臣下)を祀る10社からなっていた。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。

内務大臣指定護国神社

 護国神社は、国家のために殉難した英霊を祀っている神社。東京都を除く道府県に建立され、その地域出身の戦死者(軍人)だけでなく、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者も主祭神として祀っている。

 「内務大臣指定護国神社」は、昭和14(1939)年4月1日の「護國神社指定」内務省告示第142号によって指定された全国34の護国神社。その後増え続け、大東亜戦争末期までに51社が指定された。

 昭和14年2月3日発せられた「招魂社ノ創立ニ關スル件」(第30号神社局長通牒)で、一部の例外を除き各道府県に1社のみを許可することとしたが、行政区分とは異なる旧陸軍の連隊帰属意識が優先されたためか、崇敬地域の広い北海道は3社が指定され、岐阜県・兵庫県・島根県・広島県は2社が指定された。神奈川県のみない。

 護國神社は、かつては「招魂社」と呼ばれていたが、同年4月1日に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(内務省令第12号)により社号を「護國神社」と改称。

 なお「東京招魂社」は、明治12(1879)年、明治天皇の命名により、既に「靖国神社」と改称していた。

神饌幣帛料供進指定神社

 明治40(1907)年から府県郷社や村社(指定神社以上)が例祭に地方公共団体の神饌幣帛料の供進を受けることが、大正3(1914)年4月からは祈年祭・新嘗祭にも神饌幣帛料の供進を受けることがそれぞれ認められ、神饌幣帛料供進社と称された。

別表神社

 前述の通り昭和21(1946)年、神社の国家管理が廃止され、公的な社格の制度(近代社格制度)が消滅したため、それに代わり昭和23(1948)年に定められた。

 近代社格制度の廃止後は、伊勢神宮を除く全国すべての神社は格差のない対等な立場であるとされた。しかし、旧官國幣社や一部の大規模神社については、神職の扱いを一般神社と同条件にすると不都合が生じたことから、「役職員進退に関する規程」において特別に扱わざるを得なくなった。

 その対象となった神社が、同規程の別の表に記載されていたことから、「別表神社」(一般とは別の表に掲げる神社)と呼ばれるようになった。

 列挙された神社のほとんどが有数の大規模神社だったため、結果的に近代社格制度に代わる新しい社格基準と認識されている。

神社の格を示す,社格とは…
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※基本的にすべての時代の一宮を表記しているため、一令制国に複数存在したり、時代ごとの国割に変化があるため地図にも若干矛盾が生じている。また、歴史的に(???)…でも「一宮会」の会員神社や「我が社は一宮」と主張されている神社は載せている。ただし明治以降に成立した「北海道一宮」は、作図の関係で割愛させていただいた。
※地図には表現し切れていないが、同時代の旧国として大阪の「堺」も独立令制国として存在していた。
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※見やすく探しやすいように、現代の都道府県を基準に配列してある。
引用元・参考文献▶『宗教年鑑』文化庁編/『神道とは何か』伊藤聡(中公新書)/『地図帳』帝国書院編/『古事記完全講義』竹田恒泰(学研) /Wikipedia/全国の神社で入手したパンフレット等/他
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